あたしらす記

大長編Twitter

FMC第2回巡検 江ノ島鎌倉巡検解説〈鎌倉編〉

f:id:kokuun_kamakura586:20211219233345j:plain

 実はこれが初投稿となるこくーんです。Twitter-@kokuun_kamakuraの中の人です。さて、先日11月1日、私が主催しフォッサマグナクラブのメンバー(のうちの4人)に鎌倉と江ノ島を案内しました。しかし、我ながらなかなかに内容がニッチだったので、参加者の方には内容を振り返っていただき、また、それ以外の方にも私なりの視点で見た鎌倉・江ノ島の面白さを感じてもらいたくここに書き記すことに致しました。
 拙い文章ですが、どうぞお手柔らかに。

 

0.コース概要

f:id:kokuun_kamakura586:20211217222751p:plain

当日の移動履歴(参加者記録)

今回のコース

藤沢駅鎌倉駅小町通り→浄光明寺→東林寺跡→寿福寺鎌倉駅鎌倉高校前駅腰越駅→併用軌道区間→龍口寺前交差点→弁天橋→江ノ島参道→江島神社奥津宮→稚児ヶ淵→山二つ→湘南港→弁天橋→江ノ島駅藤沢駅

総歩行距離:約10.7㎞

所要時間:7時間14分(11:00→18:14、Twitter投稿時間より計算) 

使用したタグ:#FMC_exc #江ノ島鎌倉巡検

1.鎌倉エリア

 鎌倉エリアでは中世における逗子層・池子層(凝灰岩・砂岩泥岩互層)丘陵の開発をテーマに鎌倉扇ヶ谷の辺りを巡検しました。ここに来るまでに江ノ電乗り通しを行いましたが、車窓風景は検索すればいくらでも出てくると思うのでこちらではツイートだけ掲載して割愛します。

1-1 浄光明寺・東林寺跡

 鎌倉駅に到着した後、早速我々は小町通りをスルーし、人気のない路地へ直行していったのですが、その末辿り着いたのがここ浄光明寺です。

f:id:kokuun_kamakura586:20211217222717p:plain

光明寺・東林寺跡および史跡の位置 鎌倉市都市計画図を一部加工
 浄光明寺という名前は、現在NHKで放送されている『ブラタモリ』の鎌倉回を見たことがある人は一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。見たことないという方もこの鎌倉回は書籍化されていますので是非一読を勧めます(ステマ)。それはさておき、この浄光明寺には何があるのかというのを3文字で表したいと思います。

 それは、”やぐら”です。物見櫓の方じゃないです。鎌倉の山に行ったら必ずと言っていいほど岩壁にボコボコ空いてるあの穴です。

 今回は、Covid-19の影響により谷戸奥部の参拝はできませんでしたが、過去に撮影した仏堂横のやぐらの写真を掲載しておきます。中には様々な形の供養塔が入っています。鎌倉時代において、平地の少ない鎌倉では法華堂を平地に作るのが禁じられていため*1、このように開発によってできた岸壁に穴を掘り、そこに埋葬するといった様式が武士の間では主流となっていました。このようなやぐらは鎌倉に3000~4000基存在するといわれており、多様な様相を見せています。

 続いて、谷戸を挟んで反対側にある東林寺跡を見学しました。現在は墓地となっていますが、当時は仏殿などが造成されていた模様です(鎌倉攬勝考辺りを漁れば当時の図が見つかるかと思ったが見つからなかった)。その痕跡の一つとしてでしょうか、複数のやぐらが岸壁に造成されているのが観察されます。その中で最も特殊な形式のやぐらがここにはありまして、それを人は”アパート式やぐら”と呼びます。

 なぜこのような名前がついているのかはこのやぐらの玄室壁面を見ればわかるかと思います。壁面を見ると、多数の四角い穴がさらに開いている様子を見ることができます。これは、一つのやぐらに多数の供養塔を設置するためにとられた工法で、このように壁にアパートのように多数の空間を作ることで床面積を増やした結果こうなりました。このようなやぐらからも、限られた土地を有効活用する工夫を感じ取ることができるかと思います。

1-2 寿福寺・今小路


 東林寺跡を出た我々は、今小路通に踏み切り経由で出て寿福寺へ向かいました。道中で地元の幼稚園の遠足とみられる団体さんが道に迷われてましたので道順をお教えしました。泉が谷、地図を見ると奥まで行けば県道に出れそうな感じ出してますが実際は山の中に消えていくのですね…初見殺しだと思います。

 それはさておき、次に見学した寿福寺では、塔頭跡などを散策して中世当時の傾斜地の利用法について学びました。これがなかなか面白いのです。

f:id:kokuun_kamakura586:20211219201723p:plain

寿福寺境内及び切岸の分布 鎌倉市都市計画図を一部加工

 寿福寺は「鎌倉五山第三位」というなかなかにつよつよなステータスをお持ちのお寺で、幕府があったころはここに御所を置く構想もあったくらい*2です。ですが、一度このような強そうなステータスに惹かれふらっと寄って行った観光客は現在の寿福寺を見て首を傾げ、こう思うはずです。

 鎌倉五山の三位に列せられるような寺にしては規模が小さすぎるのではないか」と。

 現在、寿福寺境内で参拝用に公開されている建物は本堂(中には入れない)くらいで、本堂へ続く参道から裏手の墓地からのみ、中世当時から変わることのない雰囲気を感じ取ることができます。しかし、寿福寺はそこだけではないのです。実は、上記の地図において切岸で囲われた谷戸の内側は、ほぼ全部寿福寺の境内です。本堂から政子の墓に至るまでの道で、中々に年期の入った宅地が数軒並んでいる様子を見ることができますが、中世当時、このスぺースには寿福寺塔頭(境内にある小さい寺院)が建っていたとされます*3。このことも含め、もう一度寿福寺を歩いてみると、当時の大寺院の風格を感じることができるでしょう。

 お寺の内と外を結ぶ通用口として、こんな洞門があります。

 鎌倉にはこのような手彫りの洞門が多いですが、これには傾斜地の多い鎌倉独特の土地開発と関係があります。余談ですが、この洞門はまんがタイムきららフォワード原作のアニメ、『ハナヤマタ』のなるが自宅から外出・帰宅するシーンでよく映ります。領域の外と中を結ぶ洞門とか解釈一致じゃん(?)。f:id:kokuun_kamakura586:20211219223507j:plain  

 ここまで何度も言ってきましたように、鎌倉の大部分は山で、急傾斜地となっています。そのため、寺社建設など広い土地が必要な開発の際は整地が必須となります。鎌倉では、比較的柔らかい逗子・池子層の地質を活かし、上の図のように、中世より平地+切岸の造成をすることで平地の拡張を行ってきました。一部の開発場所では、平地と切岸が連続した「ひな壇状地形」と我々が呼んでいる遺構も残っています。さて、今回紹介する寿福寺では、隣接する谷戸でも同じような開発を行っていました。上の図から察せられると思いますが、このような開発の結果、両者の谷の間では、薄い岩壁ができます。このような岩壁ができた以上、隣に行く際にはわざわざ表の通りに出て隣の谷戸に入るより、薄い岩壁をくりぬいて通用口を作った方が合理的ということでこのような洞門が盛んに作られたのでした。一方このような洞門は、やぐら・石切場の造成によって岩壁がさらに薄くなった結果、風化によって空いたといった例もしばしばあります。今回の洞門はやぐららしきスペースが洞門の隣にありますが、おそらく後に道路開削のために人為的に開けられたものだと考えています。

 いつもの流れで政子の墓などがある唐草やぐら群にも訪問しました。オオスズメバチがお出迎えしてくれていつ行っても賑やかな場所です(良くない)。


おまけ①

 扇ガ谷のなかなかインパクトのある私道マーキング

 

 

一部参考にしたものです。もっと知りたい方はどうぞ。

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/nenpo/No04/025-054.pdf

 

 次回、オタクがついにカップル島こと江ノ島へ侵入していきます!

 

 

*1:「府中墓所禁令」といわれていた(『中世都市鎌倉の環境』河野、2007)

*2:鎌倉五山:寿福寺の歴史・見どころ

*3:十数カ所もあるらしい寿福寺 - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~